今の時代、「我慢の上に成り立つ努力」ではなく「没頭の上に成り立つ努力」が正しい努力の仕方です。

「仕事をしていても何だかやるせない」、「これからの将来どのように生きていけばいいのかわからない」、「いったいわたしが頑張る意味はどこにあるのか」

このような疑問を抱く人に、わたしを含め希望を抱きにくい時代に生まれてしまった若い世代にはぜひ読んでもらいたい一冊です。特に、「努力すれば報われる」と思っている方は早いところ価値観を変えるべきですよ。

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「努力すれば報われる」は根本的に傲慢

努力ってそもそも何でしょうか。辞書を引いてみると次のように書かれてありました。

ある目的を達成するために、途中で休んだり怠けたりせず、持てる能力のすべてを傾けてすること。

そうです。辞書に書かれてある通り、私たちがイメージする努力とは、勉強やスポーツや仕事ににおいて、娯楽などの自分の時間を犠牲にして、持てる力をそれにすべて注ぐことです。

努力と聞くと皆さんはどんな印象を持つでしょうか。

ある人は、「努力している人はカッコいい」と答えるかもしれませんし、またある人は「努力はしんどい」と答えるかもしれません。

一般化してみると、多くの人の努力のイメージとは「自分が努力するのはしんどいけれど、誰かがしている努力には素晴らしさや美しさを感じる」といったところでしょう。

自分の能力が劣っていると「努力が足りないからもっと努力しよう」と考える人は結構います。私たちの20代30代あたりの世代は、親から「努力は報われる」と言われて育てられましたからね。

「努力すれば報われる」という考え方は、根本的に傲慢だということです。ぼくらはそんなにパワフルではありませんし、社会はもっと複雑なのです。

本書では「努力すれば報われる」という考え方は傲慢だと答えています。たしかに、「努力すれば報われる」とは、言い換えてみると「努力すれば自分はできる」という一種の傲慢さが含まれています。まるで自分が万能であるかのような、傲慢ともいえる考え方が根底にあるのです。

「努力すれば報われる」はバブル時代の名残でしかない

少し上の世代になっていくと、不思議なことに、未だに「努力すれば何とかなる」と思い込んでいる人がいらっしゃり、その論理をぼくたちに押しつける傾向が見られます。

私たちの親はバブル世代を生き、あの時代は適当にやってても業績は伸びるし、就活しなくても企業側からオファーの来る時代の完全に売り手市場で、仕事も何もかも少し頑張ればうまくいく時代でした。むしろ頑張らなくてもうまくいく時代でした。

その時代の名残が「努力すれば報われる」という標語なんじゃないでしょうか。彼らの多くは、実際には大した努力をしていないにもかかわらず成功した人たちが多いので、「自分はたくさん努力した」と勘違いし私たちの努力が足りないと主張します。各人、それぞれ自分なりの努力をしているはずなのに、私たちにこれでもかと努力を押し付けてくるのです。

経済の衰退、グローバリゼーション、ロボットの普及など、様々な圧力によって努力が報われる可能性は狭まっていきます。

違うんです。一人ひとりの努力が足りないのではなく、社会全体として、努力が報われにくくなっているのです。

本書にもある通り、日本の人口や経済は今後縮小していき、ロボットの普及による雇用の縮小、グローバリゼーションの促進によって安価で外国人労働者が導入されていきます。そんな時代では、努力が報われる可能性は狭まってきています。一昔前に比べると、努力が報われる可能性なんて本当にちっぽけなんですよ。

「努力は報われる」という標語のせいで、努力が報われなければ「私はダメなんだ」「俺は無能だな」と無意識に思い始め、やがては自信を失い、心の病を抱えてしまいます。

そのことを上の世代の人たちは分かっていません。だから勝手な努力論を押し付けてきます。

努力は後天的に身につくスキル

完全に自分の力だけで努力できるようになるというのは不可能です。他者から認められる経験があってはじめて、人は努力できるようになります。努力というのは、生まれ持った素質ではないのです。他者によって、環境によって、運によって、後天的に身についていくスキルなのです。

著者のイケダハヤトさんは、そもそも努力は自分の力だけでできるようになるのは不可能だと考えます。人は誰かに褒められたり認められる経験があって初めて努力できるようになるとのこと。

この考え方には非常に納得できる部分があります。私の中にもそういう経験があったと自覚しています。

私の例をひとつ挙げてみましょう。私は小さい頃、地域のソフトボールチームに所属していました。私が何かできるようになるとそのたびにコーチや監督に褒められ、うまいと認められる経験が何度もありました。

おかげで自信が付き、気づかないうちにゲームする時間を削って夜に素振りやランニングなどしていたんですよね。自分では意識していませんでしたが、今振り返ればあれは努力といって間違いありません。

私がソフトボールで努力できるようになったのは、実は非常に運が良かったんです。どういう事かというと、私はチームの中でかなりうまい方だったんですよね。

もし、私よりもうまい人がたくさんいるチームに所属していたらどうでしょう。私は周りの人と比較されて、決してうまいと認められることもなかったでしょう。そういった認められる体験が無ければ、ソフトボールを楽しいと思うことすらなく、何が楽しくて夜に素振りやランニングなどするでしょうか。

人は褒められたり認められたりすることによって、そのこと自体が楽しくなって、無意識に努力できるようになるんです。努力できるようになると、よりうまくなり、さらに自信はついていき楽しくなってきます。そんな経験を積み重ねることによって、人はだんだんと褒められたり認められたりせずとも努力ができるようになっていくわけですね。

努力は生まれ持った素質ではなくて、他者や環境、そして運によって後天的に身につくスキルなんです。

平等であることは理想ですが、社会の実相は、平等とほど遠いのが現状です。すでに日本社会というのは、生まれた時点ですでに平等でも何でもないのです。

そうです。この世に真の平等なんて存在しないのです。

努力できる人たちが努力できない人たちにたいして、「努力が足りない」と叱咤することはそもそも間違いなんです。傲慢なんです。努力できる人は家庭環境、学校環境、運が良かったから努力できているんです。本来は、努力できない人に「努力しろ!」というのではなく、努力できるように救いの手を差し伸べるべきなんです。

我慢の上に成り立つ努力ではなく没頭の上に成り立つ努力

ここまで書いてきて、「努力しないことを肯定しているだけだ!」と思う方もいるでしょう。ですが、著者はこうもこたえています。

「努力すれば夢はかなう」という標語はうそですし、それは自他を苦しめる呪詛です。しかし、「夢をかなえたければ、努力しなければいけない」という標語は、99%程度、真実だといってよいでしょう。努力は十分条件ではなく、必要条件だということです。

「努力すれば報われる」という標語が古いと述べている中にも、「努力しなければ成功できない」とも述べています。確かに、何かを成し遂げるためには必ず努力しなければいけません。

「努力すれば報われる」という考え方は、努力を十分条件ととらえていますが、努力は成功するための必要条件にすぎないわけですね。

みなさんがものすごく頑張ったとしても、その成功や幸せを手にすることができるかどうかは「運」にかかっているということです。運の要素を無視した努力は「やさしさ」という緩衝帯を持つことができません。

成功や幸せを手にするには努力という必要条件のほかにも、環境や運といった必要条件も含まれてきます。こういった、努力を必要条件としてとらえない努力は私たちに「厳しさ」しか与えません。

たとえうまくいかなかったとしても「ま、やってて楽しいしそれでいいや」と割り切れるようになるのが、これからの時代の健全な努力なのです。

努力するのは確かにしんどいことですが、自分の自由な時間を削ったりして辛い思いをしてまでする努力ではく、「やっていて楽しいからもっとやろう」という努力が新しい時代の努力の仕方だと思うんです。

我慢の上に成り立つ努力ではなく、没頭の上に成り立つ努力が、今の時代の正しい努力なんじゃないでしょうか。

ぜひこの一冊を読んで、努力に対する価値観を上書きしてほしいです。新しい努力の価値観が広がれば、もっと生きやすい世の中になるはずです。

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コメント

  1. 匿名 より:

    まぁ努力はあくまで手段だからね。

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